スイスの現代美術作家 イヴ・ネッツハマー ふたつの個展
2019年3月号の『美のプリズム』において、スイスの現代美術を代表するイヴ・ネッツハマーを紹介したことをみなさんは覚えていらっしゃるだろうか(https://netzhammer.com/)。当時のわたしは、彼の展覧会をどうにか日本で開催できないものか試行錯誤していた。つてのある日本の美術館やギャラリーにコンタクトをとってはけんもほろろに断られ、全敗続きであった。その後、紆余曲折を経て今年の春ようやく、宇都宮美術館で「イヴ・ネッツハマー ささめく葉は空気の言問い」展が開催される運びとなった(会期は5月12日まで。http://u-moa.jp/exhibition/exhibition2.html)。最初に動き出してから7年がかりのプロジェクトだった。展覧会を企画してから実現に至るまで数年を費やすのは、美術館の世界ではごく普通のことだが、今回は、コロナ禍、ウクライナ戦争など不確かな要素がわたしたちの想像を凌駕するかたちでプロジェクトに大きな影響を与えた。多くの方々のご助力を得て開催に漕ぎつけた展覧会であるが、何よりも、アーティストと二人三脚で数々の困難に屈せずやり遂げた担当学芸員の胆力、そして展覧会を空間として成り立たせるうえで不可欠なその美的センスの賜物であると、深く感謝している。生きているアーティストと一緒に走り抜けることには、特別な爽快感がある。無論、どのアーティストでもいいわけではない。まず何より、そのアーティストの作品に惚れ込めるかが重要だ。そして展覧会の成否は、深い信頼関係をアーティストと築けるかにかかっている。
宇都宮美術館での展覧会と並行して、 実は、ゾロトゥルン美術館でもネッツハマーの個展が開催されている(会期は同じく5月12日まで。https://www.kunstmuseum-so.ch/de/ausstellungen/1787-yves-netzhammer)。展覧会の題名は、「世界は美しく、こんなにも多様だ。皆が愛し合ってもおかしくはないはずなのに。Die Welt ist schön und so verschieden, eigentlich müssten wir uns alle lieben.」である。宇都宮とゾロトゥルン、ふたつの展覧会は双子のようなものとしてアーティストの頭の中で構想されたことが彼の言葉選びからうかがえる。なぜならこの全く同じ題名が、宇都宮で展示されている「二十八曲一隻」の巨大な屏風にもつけられているからだ。屏風に描かれたモチーフや主題は、(全く同一ではないが)ゾロトゥルンでは壁画として描かれている。両者に共通するのは、人間や動物、その混種のような風変わりな生きもの、時には切断された肢体たちが絡みあい、壮大なパノラマを繰り広げているところである。これら生きものはネッツハマー作品に特徴的な純化された線によって繋がり、異質で多様な「他者」たちが時には闘い、時には共生する様が現出している。互いの存在は切っても切り離せない、という生きとし生けるものの宿命を、日本では屏風という形式で、スイスでは壁画という形式で表しているのだろう。そして、主題があまり深刻にならないように、淡くて柔らかな色彩が選ばれているのも共通している。宇都宮の担当学芸員はなぜ屏風という形式をアーティストが選んだのか考察しているので、ここで紹介しよう。「綾なす線のアラベスクのうちに多様な生が一蓮托生となってつながる光景をネッツハマーは他の作品でも試みているのですが、屏風という形式は、そのようなつながりの玄妙さをあらわすひとつの可能性として選択されたものと考えられます」。
宇都宮とゾロトゥルンのふたつの個展は、さらなる「言葉」によって緊密に繋がっている。7室からなるゾロトゥルン展の各部屋は回廊式で(建築的に)繋がっており、各部屋に付けられたタイトルも、隣接するふたつの部屋のタイトルがひとつの単語を共有するかたちで尻取り式に繋がっていく。(1)ささめく葉は空気の言問い Blätter sind Fragen der Luft ――(2)空気は根の墓場 Die Luft ist das Grab der Wurzel ――(3)肉に食い込んだ仮面の根 Wurzeln von eingewachsenen Masken――(4)人の住み着かない顔のための仮面 Masken für unbewohnte Gesichter――(5)きちんと育っていない人間の顔 Gesichter von unfertigen Menschen――(6)人間とは歩くことのできる樹々 Menschen sind Bäume, die laufen können――(7)樹は、葉を茂らせた獣 Ein Baum ist ein Tier mit Blättern
最後の第7室は回遊プランの第1室と「葉」で繋がり、連鎖の円環を閉じる。「葉」という語は植物の葉であると同時に「言葉」を書きつけるための紙片を意味することを、ネッツハマーは強く意識しているのだろう。それを汲み取った宇都宮の担当学芸員は、「Blätter sind Fragen der Luft」という展覧会のタイトルを、空気が振動して葉っぱが揺れ動くように「言の葉」がわたしたちに投げかけられる、と解し、そこには常に言問いがあること、そっと耳を澄ますこと、生のきらめきを、「ささめく葉は空気の言問い」という訳に昇華させた。
だれもが異質で多様な「他者」なのだから、互いに受け入れ認め合い、愛し合えればこんなにいいことはないのに、現実は、残念ながらそうではないという嘆きはため息となり、「空気の言問い=言葉にならない言葉」の内容をなしていると想像してみたらどうだろうか。「言の葉」もあなたからわたしを介して連鎖していく。それを「贈り物」として受け取れたらどんなにいいことだろうか。
さて最後に、イヴ・ネッツハマーの映像作品を見ることのできる今後チューリ匕で開催される展覧会と、彼の初の長編デジタル・アニメーション映画「旅する影」についてご紹介しよう。クンストハウスのメディア・アート・コレクションはスイスでも有数の規模を誇る。その中から10名の映像作家を選んだ「Born Digital」展(会期は6月7日から9月29日。https://www.kunsthaus.ch/besuch-planen/ausstellungen/born-digital/)では、ネッツハマーの2002年の映像作品「裏返しの鎧 Die umgekehrte Rüstung」が公開される。また、今年の秋には、ドイツのデュイスブルクにあるレームブルック美術館(彫刻家のヴィルヘルム・レームブルックの遺品コレクションを保存展示する美術館)で創立60周年を記念した特別展が開催される。そこでネッツハマーは大きな展示室を使って作品を発表する。それが来年、クンストハウスに巡回する予定である。ロッテルダム国際映画祭に招待された「旅する影」は今年スイスで上映されるので、是非、みなさん大きなスクリーンでネッツハマーの世界に浸っていただきたい(https://www.swissfilms.ch/de/movie/reise-der-schatten/B017956F156B4D0E94BA543D066F3D67)。